歴代王名一覧(スコットランド)
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王名 在位 王朝名
備考/正式称号
ケネス1世
マクアルピン

Kenneth T, MacAlpin
839〜859 アルピン家
Alpin
(連合)オールバ王国の初代王。 スコット族のダルリアダ王国 Kingdom of Dalriadaの国王アルピンの息子として生まれ、 その王位を継いだ後、ピクト族のオールバ王国との統一を成し遂げた。
ドナルド1世
Donald T
859〜863 ダルリアダ王国のアルピン王の次男として生まれ、 タニストリーにより兄ケネス1世より王位を継いだ。
コンスタンティン2世
Constantine U
863〜877 先々王ケネス1世の長男として生まれ、叔父ドナルド1世より王位を継いだ。 息子ドナルドは次々王となった。877年、デーン人との戦いで戦死。
エイ
Aedh
877〜878 先々王ケネス1世の次男として生まれ、兄コンスタンティン2世より王位を継いだ。 長男コンスタンティン3世、次男ドナルド(ストラスクライド王)は後の王となった。 877年、戦死。
ヨーカ
Eocha
(Eochaid)
878〜889 ストラスクライド王国のラン・マッカーサゲイル王 Run Macarthagailと 初代王ケネス1世の長女の息子として生まれ、父王よりストラスクライド王位、 叔父エイよりオールバ王位を継いだ。 889年、廃位。
ドナルド2世
Donald U
889〜900

3代王コンスタンティン2世の息子として生まれ、 従兄弟で先代王のヨーカの廃位により王位を継いだ。 息子は後のマルカム1世になった。 900年、戦死。
コンスタンティン3世
Constantine V
900〜942

4代王エイの長男として生まれ、 従兄弟で先王のドナルド2世より王位を継いだ。 同化しないピクト族、北のスカンディナヴィア人と戦い王国を充実させたが、 南部のブリトン族、アングル族 Anglesとも領土を巡って戦った。 長男は後のインダルフ王になった。 942年に廃位に追い込まれ、その後はファイフのセント・アンドリュース修道僧になった。
マルコム1世
Malcolm T
942〜954
先々王(5代)ドナルド2世の息子として生まれ、 父王の従兄弟で先王のコンスタンティン3世より王位を継いだ。 長男は後のダフ王、次男はケネス2世となった。 954年、戦死。
インダルフ
Indulf
954〜962


先々王(6代)コンスタンティン3世の長男として生まれ、 又従兄弟で先王のマルコム1世の戦死により王位を継いだ。 長男は後のカリン王になった。 962年、廃位に追い込まれ修道僧になったが、ヴァイキングとの戦いにより戦死。
10 ダフ
Duff
962〜967
先々王(7代)マルコム1世の長男として生まれ、 先王インダルフの廃位により王位を継いだ。 長男は後のケネス3世、次男マルコムはストラスクライド王位についた。 967年、戦死(次王カリンによる暗殺)。
11 カリン
Colin
967〜971
先々王(9代)インダルフの長男として生まれ、 先王ダフの戦死(暗殺を画策)により王位を継いだ。 長男は後のコンスタンティン4世になった。 971年、戦死もしくは暗殺された。
12 ケネス2世
Kenneth U
971〜995
8代王マルコム1世の次男として生まれ、 先王カリンの戦死により王位を継いだ。 ダンケルド Dunkeld以北に侵攻し、エディンバラを配下に収めた。 南部のノーサンブリアにも何度も侵攻した。 長男は後のマルコム2世になった。 995年、次王コンスタンティン4世の画策により暗殺。
13 コンスタンティン4世
Constantine W
995〜997
11代王カリンの長男として生まれ、 先王ケネス2世を暗殺し、その王位を継いだ。 結婚はしたが世継には恵まれなかった。 997年、後のマルコム2世により殺害。
14 ケネス3世
Kenneth V
997〜1005
10代王ダフの長男として生まれ、 先王コンスタンティン4世より王位を継いだ。 3男を残したが、いずれもオールバ王位には就かなかった。 1005年、後の次王マルコム2世により戦死。
15 マルコム2世
Malcolm U
1005〜1034

12代王ケネス2世の長男として生まれ、 990年頃ストラスクライド王位に就き、 1005年、先王ケネス3世を殺害しオールバ王位を就いた。 1016年には南部ローシアン(アングル族の国)に侵攻し、ローシアン王とも名乗った。 同年、孫のダンカン(次王ダンカン1世)をストラスクライド王の継承者にした。 タニストリーによる王位継承制度の廃止を目指した。 在位中の1018年より、国名をスコウシア王国 Kingdom of Scotiaとした。 1034年、タニストリー廃止に反対する王族により殺害。
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16 ダンカン1世
Duncan T
1034〜1040 アサル家
Atholl
アサル領の副王 momarであるクリナンと祖父で先王のマルコム2世の長女ベソックの長男として生まれ、 1018年にストラスクライド王位に就き、1034年マルコム2世よりオールバ(スコウシア)王位を継いだ。 この時よりスコット族、オールバ王国(ピクト族)、ストラスクライド王国(ブリトン族)、ローシアン王国(アングル族)は、 ダンカン一世の同君連合となった。 長男は後のマルコム3世、次男は後のドナルド3世となった。 1040年に祖父と同じくタニストリー無視での王位継承に反対した後の次王マクベスにより殺害された。
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17 マクベス
Macbeth
1040〜1057 マリ家
Moray



マリ領の副王フィンレイ・マクローリーとドウナダ(ケネス2世orマルコム2世の娘)の息子として生まれ、 1029年頃に父からマリ副王を継いだ。 しかし、先王ダンカン1世がタニストリーを無視してスコウシア王位に就いたことに反対して殺害し、 その王位に就いた。 マクベスは王位に就く前の1032年過ぎにケネス3世の孫娘グロッホと結婚したが、 その前夫(マリ領の副王ギラコムガン)との息子ルーラッハが次王となった。 1057年、後のマルコム3世(先王ダンカン1世の長男)に殺害された。
18 ルーラッハ
Lulach
1057〜1058 義理の息子 マリ領の副王ギラコムガン Gillacomgainと14代王ケネス3世の孫娘グロッホの息子として生まれ、 ギラコムガンの死後、グロッホが先王マクベスと再婚したため義理の息子となった。 そのマクベスは後のマルコム3世に殺害されたが、王位にはルーラッハが推され1057年王位に就いた。 それに怒るマルコムによって1058年、ルーラッハも殺害された。
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19 マルコム3世
カンモー

Malcolm V,
Canmore
1058〜1093 アサル家
Atholl




16代王ダンカン1世の息子として生まれ、 父王が17代王マクベスに殺されたため、1057年にマクベスを殺害するが王位には就けず、 王位に就いた先王ルーラッハ(マクベスの義理の息子)も殺害して王位にやっと就いた(1058年)。 度々イングランド北部に侵攻したが失敗して、 1071年には逆に侵攻してきたイングランド王ウィリアム1世に臣従させられ、 長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質に取られた。 しかしその後もイングランドに侵攻し、1093年に戦死した。 ノルウェイ王家の血を引くインガボーグと結婚し、その長男がダンカン。 彼女の死後、イングランド王エドマンド2世の孫マーガレットと再婚し、 次男は後のエドマンド王、三男がエドガー王、四男はアレグザンダー1世、 五男はデヴィッド1世となった。 また長女マティルダはイングランド王ヘンリー1世の王妃となった。
20 ドナルド3世
ベイン

Donald V,
Bane
1093〜1094
1094〜1097
16代王ダンカン1世の息子(次男)として生まれ、 27歳頃にガウリ伯(or副王)に叙された。 文化的な兄王マルコム3世と違い粗野で、その兄が戦死した時、 王位継承者ダンカン(後のダンカン2世)はイングランドで人質になっていたこともあり、 ドナルドはタニストリーによる王位継承を主張して王位に就いた。 しかしダンカンはイングランド王ウィリアム2世に厚遇されていて、 スコウシア王位奪還の支援を受け、成功した。 ところがスコウシア王はイングランド王に臣従するというマルコム3世の誓約に反対する勢力をまとめ、 ドナルドはダンカン2世を殺害し、再び王位に就いた。 その反感を和らげるため、ダンカン2世の異母弟のエドマンドに南部(ローシアン、ストラスクライド)の統治を任せて、 共同統治とした。 しかし、エドマンドの弟エドガーはその共同統治に反対し、ドナルドを幽閉、兄エドマンドに廃位させた(1097年)。
22 ダンカン2世
Doncan U
1094
(5〜11月)
19代王マルコム3世と最初の王妃インガボーグの長男として生まれ、 父王マルコムのイングランド侵攻失敗により、その身はイングランドの人質とされた。 それにも関わらずマルコムはイングランド侵攻を繰り返し、その最中の1093年に戦死した。 その時、叔父のドナルド3世がタニストリーによる王位継承を主張しスコウシア王位に就いた。 ダンカンはイングランド王ウィリアム2世の支援で王位を奪還するが、 イングランドへの臣従の誓約に反対する勢力をまとめたドナルド3世に殺害された。
23 エドマンド
Edmund
1094〜1097

19代王マルコム3世と二度目の王妃マーガレット(イングランド王エドマンド2世の孫娘)の次男として生まれ、 叔父ドナルド3世が先王ダンカン2世(異母兄)を殺害し王位を奪ったことに対する反感を和らげるために、 南部のローシアンとストラスクライドの統治を任され、スコウシアの共同統治にあたった。 しかしそれに反対した弟のエドガーに廃位させられ(1097年)、その後は修道僧となった。
24 エドガー
Edgar
1097〜1107 19代王マルコム3世と二度目の王妃マーガレット(イングランド王エドマンド2世の孫娘)の三男として生まれ、 叔父のドナルド3世が父王マルコムの戦死で王位継承を宣言した時、 エドガーはイングランドの人質だった義理の兄ダンカンに協力し、ダンカンは王位を奪回したが、 ドナルドはダンカンを殺害し再び王位を奪った。 その反感を収めるためにドナルドはダンカンの異母弟エドマンド(エドガーの兄)と共同統治を始めたが、 エドガーはドナルドの王位に納得せず、1097年に挙兵し二人を廃位に追い込んだ。 その統治は親イングランドを貫き、スカンディナヴィア人との抗争を避けることに努めた。 一生独身で通し、紛争を避けるため、次弟アレグザンダーを次王、 末弟ディヴィッドを南部(ローシアン、ストラスクライド)の統治者として指名した。
25 アレグザンダー1世
Alexander T
1107〜1124 19代王マルコム3世と二度目の王妃マーガレット(イングランド王エドマンド2世の孫娘)の四男として生まれ、 兄で先王のエドガーの遺言により王位に就いた。 同様に遺言の通り、南部の統治は弟デイヴィッドに任せ、 西部のアーガイル、北部のロス、マリもそれぞれの領主に任せた。 しかし、1115年の反乱には厳しく対処し「獰猛王」 The Fierceと呼ばれた。 その一方で、アレグザンダーは宗教改革にも努めた。 兄同様に親イングランドを通し、イングランド王ヘンリー1世の娘シビルを王妃に迎えた。 (この時既にヘンリーはアレグザンダーの妹マティルダを王妃にしていた。) しかし、子供に恵まれないまま1124年に死亡したため、王位は弟のデイヴィッドが継いだ。
26 ディヴィッド1世
David T
1124〜1153 19代王マルコム3世と二度目の王妃マーガレット(イングランド王エドマンド2世の孫娘)の五男として生まれ、 兄で24代王のエドガーの遺言により、 25代王アレグザンダーの治世において南部地域(ローシアン、ストラスクライド)の統治にあたっていた。 王位を継ぐ前の1113年頃にイングランド貴族(伯爵)の娘マティルダと結婚し、 その伯位を名乗った。 妻マティルダもディヴィッド自身もイングランド王家の血を引くことから、 1124年に王位に就いてからの治世はやはり親イングランドであった。 ノルマンディー出身の友人たちに領地を与え自身の補佐にしたほか、 政府組織・教会組織の改革、経済・産業の発展などにも努めた。 長男マルコムは夭逝、 次男でノーサンバーランド伯となっていたヘンリーもディヴィッド自身より一年早く死去していたため、 王位はヘンリーの長男マルコムが継いだ。
27 マルコム4世
Malcolm W
1153〜1165 先王(26代)ディヴィッド1世の次男ヘンリー(ノーサンバーランド伯)と、 エイダ(2代サリー伯ウィリアムの娘)との長男として生まれ、 11歳の時、祖父で先王のディヴィッドから王位を継いだ。 そのためかノルウェイ王ユースタイン2世の北東部侵攻、 北部マリでの反乱、西南部のアーガイル領主の反乱が続けて起こり、 更にはイングランド王ヘンリー2世が北部イングランド領地の返還を迫り、 (先王ディヴィッド1世が獲得していた。) マルコムはそれに応じてノーサンバーランド、カンバーランドの領地を返還した。 その後、地方の反乱は祖父の登用したノルマンディー出身の貴族の協力で鎮圧したものの、 1165年(23歳)、病死した。 王位は弟のウィリアム・ザ・ライアンが継いだ。
28 ウィリアム・
ザ・ライアン

William the Lyon
1165〜1214 26代王ディヴィッド1世の次男ヘンリー(ノーサンバーランド伯)と、 エイダ(2代サリー伯ウィリアムの娘)との次男として生まれ、 兄の先王マルコム4世の死去により王位を継いだ。 イングランド王ヘンリー2世が兄の治世において北部の支配権を奪ったことを恨み、 ウィリアムはフランス王ルイ七世に同盟を求め、1168年に二国は「古い同盟」を結んだ。 1174年にはノーサンバーランドを奪い返そうと侵攻するが失敗、 ヘンリー2世軍に捕らえられ、 イングランドに臣従するファレーズ協定を結ばされた。 しかし、イングランドがリチャード1世の治世になり、 十字軍に熱意を燃やすリチャードはその資金集めのために、 ウィリアムに金銭による臣従の解除を申し入れ、ウィリアムはこれに応じた(1189年)。 イングランド王ヘンリー1世の孫アーマンガードと結婚し、 長男は次王アレグザンダー2世となり、 3人の娘達はいずれもイングランドの伯爵家に嫁いだ。 1214年死去。
29 アレグザンダー2世
Alexander U
1214〜1249 長男 先王(28代)ウィリアム・ザ・ライアンとアーマンガードの長男として生まれ、 16歳の時、父王の死去により王位を継いだ。 1219年、イングランド王ヘンリー3世と休戦協定を結び、 1221年にはヘンリーの妹ジョアンと結婚した。 更に1236年にはヨーク協定を結び、ノーサンバーランドとカンバーランドの一部を取り戻した。 このことによりイングランドとの国境線は現在のものに近くなった。 しかし、ジョアンの病死の後で反イングランド派のフランス貴族の娘マリーと再婚したことで ヘンリー3世との関係は悪化、その和解までは6年を要した。 そのイングランドとの関係修復をもって、 スコットランド西部をおさえるノルウェイ軍に攻め入るが、その最中に病死した(1249年)。 王位は二度目の王妃マリーとの息子アレグザンダーが継いだ。
30 アレグザンダー3世
Alexander V
1249〜1286 長男 先王(29代)アレグザンダー2世と二度目の王妃マリーの長男として生まれ、 8歳の時に父王の戦地での病死により王位を継いだ。 10歳でヘンリー3世の策略でその長女マーガレット(11歳)と政略結婚させられた。 しかしイングランドの内乱には深入りしないように努め、国内の安定と発展を目指した。 またノルウェイ軍の駆逐にも成功、へブリディーズ諸島を奪還し、 1266年ノルウェイ王マグヌス6世と平和条約を結んだ。 しかし、王妃マーガレット、次男デイヴィッド、皇太子アレグザンダーが相次いで他界し、 フランス貴族(伯爵)の娘ヨランドと再婚したが、 その翌年に自身は落馬事故で他界した。 王位は孫娘のノルウェイ王女マーガレット(ノルウェイ王エリク2世に嫁いだアレグザンダーの娘マーガレットの娘)が継いだ。
31 マーガレット
Margaret
(of Norway)
1286〜1290 ノルウェイ王エリク2世と先王(30代)アレグザンダー3世の長女マーガレットの娘として生まれ、 3歳の時、祖父である先王の死によりスコットランド初の女王になった。 それによりスコットランドの領有化を狙うイングランド王エドワード1世は皇太子エドワード(後のエドワード2世)との政略結婚を強要したが、 当初スコットランド側はノルウェイにいたマーガレットをスコットランドに来させないことにして対抗した。 しかし、イングランドの要求は強くなり、マーガレットはスコットランドへの船旅の途中、 スコットランドの土を踏むこともなく、船酔いで死亡した。 王位は26代王ディヴィッド1世の玄孫の子ジョン・ベイリャルが継いだ。
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32 ジョン・ベイリャル
John Balliol
1292〜1296 ベイリャル家
Balliol

バーナード城の城主ジョン・ベイリャルとデヴォギラ(26代王ディヴィッド1世の玄孫)の息子として生まれ、 先王(31代)マーガレットの病死を聞き、自身の母方の血筋による王位継承権を主張した。 同様に権利を主張した者は13人いたが、 スコットランドを臣従国としたいイングランド王エドワード1世の介入・指名によりジョンが王位を継いだ。 当初ジョンは臣従を誓ったが、1295年にフランス王フィリップ4世と同盟を結び、 イングランド北部に侵攻した。 しかしこれを予期していたエドワード1世は彼の軍を打ち破り、廃位に追い込み、3年間ロンドン塔に閉じ込めた。 この時エドワードはスコットランド王戴冠の象徴「スクーンの石」を戦利品としてイングランドに持ち帰った。
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インターレグナム 1296〜1306 王不在期間
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33 ロバート1世
ドゥ・ブルース

Robert T, de Bruce
1306〜1329 ブルース家
Bruce

キャリック伯ロバート・ドゥ・ブルースと2代キャリック伯の娘マージョリーの息子として生まれ、 まず1292年に父のキャリック伯位を継いだ。 (ジョン・ベイリャル同様にディヴィッド1世に遡る家系) インターレグナムの間に先王(32代)ジョン・ベイリャルの甥ジョン・カミンと共にイングランド軍に反抗したが、 1306年にジョン・カミンを殺害し、同年戴冠式を強行し王位継承を宣言した。 しかしイングランドの攻勢に海外まで逃亡し、翌年のロバートの右腕ジェイムズ・ダグラスのダグラス城奪回を契機にして戻り、 1314年にスコットランド独立を勝ち取った。 1322年にはローマ法皇ヨハネス22世もロバートをスコットランド王として認めた。 1326年にはイングランド王エドワード2世を幽閉していた王妃イザベルがロバートに和平条約を申し入れ、 自身の娘ジョアンをロバートの皇太子ディヴィッド(後のディヴィッド2世)に妃として差し出した。 王位に就く前の1295年頃に、6代マー伯ドナルドの娘イザベルと結婚し、 後のロバート2世の母となる娘マージョリーをなした。 1302年にイザベルが他界すると同年、アルスター伯リチャードの娘エリザベスと再婚、長男が後のディヴィッド2世。 1329年病死した。
34 ディヴィッド2世
David U
1329〜1332
1346〜1371

先王(33代)ロバート1世と二度目の王妃エリザベス(アルスター伯の娘)の長男として生まれ、 1328年(4歳)に父の昔の爵位、キャリック伯位に叙され、 これ以降スコットランドの皇太子はキャリック伯位に叙される伝統が生まれた。 王位を継いだ幼王ディヴィッドは王位の安定を急ぐために、 1326年に和平条約の代わりにイングランドの王妃イザベルから差し出されたジョアンと、 1328年4歳で結婚した(ジョアンは7歳)。 しかし、1332年にはファイフの貴族達によりイングランド王エドワード3世が侵攻し、 ディヴィッドは廃位に追い込まれ、 32代王ジョン・ベイリャルの息子エドワードが王位に就いた。 ディヴィッドは王妃ジョアンと共にフランスに亡命し、7年の後スコットランドに戻り、 1346年イングランドに攻めいるものの捕らえられ、以後11年間ロンドン塔に収監された。 (この頃の国王はエドワード・ベイリャルなのか、ディヴィッド2世なのか明確ではない) しかしこの頃、フランスとの百年戦争を迎えていたイングランドはスコットランド占領に軍備を割くこともできず、 1357年にはイングランドとスコットランドは10年の休戦協定を結び、ディヴィッドも釈放された。 デイヴィッドはなぜか6年後イングランドに戻るが、王妃ジョアンの死でスコットランドに戻った。 ジョアンにも次の王妃にも子供ができなかったため、王位は摂政を務めていたロバート・ステュアートに継承された。 1371年死去。
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35 エドワード・ベイリャル
Edward Balliol
1332
1333〜1346
ベイリャル家
Balliol

32代王ジョン・ベイリャルと王妃イザベルの長男に生まれ、 1296年の父王の廃位から、その後のロバート1世即位、その息子ディヴィッド2世が幼王だったことで、 ファイフ貴族の支援、イングランド王エドワード3世の支援を得て、 エドワード3世軍のファイフ上陸をもってデイヴィッド2世の廃位、エドワードの即位に至った。 しかし、アーチボルド・ダグラスによってエドワードはイングランド側に逃げ込み、 再びエドワード3世軍の侵攻によってエドワードが復位した。 しかし、実際のスコットランド王室、政治はデイヴィッド2世の治世から引き続き、 ロバート・ステュアートが摂政を務めていた。 エドワード・ベイリャルの廃位、死亡時期は共にはっきりわかっていない。
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36 ロバート2世
Robert U
1371〜1390 スチュワート家
Stewart
(後にStuart)

6代ハイ・スチュワード・オブ・スコットランドのウォルターと、 33代王ロバート1世の孫娘マージョリーの息子として生まれ、 18歳から、義理の叔父にあたる34代王ディヴィッド2世の摂政となった。 ロバート自身は26歳でアサル伯に叙爵された。 その後もディヴィッド2世の不在期間にも関わらず、 ロバートは王位を簒奪することもなくスコットランドの内政を預かっていた。 そして、1371年にディヴィッド2世が世継の無いまま死去したことに至って、 ロバートはロバート2世として55歳で王位に就いた。 長男ジョンは次王ロバート3世、次男ウォルターはファイフ伯、 三男ロバートは初代オルバニー公、4男アレグザンダーはバハン伯となった。 その他を含め二人の王妃の間に14人、数人の愛妾の間に8人の子供をなした。
37 ロバート3世
Robert V
1390〜1406
まだ王位につく前の摂政時代の前王ロバート2世と、 後の王妃になる愛人エリザベスの長男ジョンとして生まれ、 結婚前に生まれた子であったことで戴冠式は遅れた。 即位する二年前の怪我により、弟のオルバニー公ロバートが王室、内政の実権を握っていた。 さらに皇太子ディヴィッドがオルバニー公に預けられて原因不明で死去した(1402年)ことより、 ロバートは疑心暗鬼から三男ジェイムズをフランスに預けようと送り出した。 しかし、ジェイムズはその途中でイングランド側に拿捕され(1406年)、 その後18年間イングランドに捕らえられた。 ロバート3世はその知らせが原因で死去したが、その二ヵ月後、 スコットランドはジェイムズを王ジェイムズ1世とした。 摂政にはオルバニー公があたった。
38 ジェイムズ1世
James T
1406〜1437
前王(37代)ロバート3世と王妃アナベラの三男として生まれ、 兄の皇太子ディヴィッドの死去(次兄も早世)により、1404年ロスシー公、キャリック伯に叙爵された。 さらにディヴィッドがオルバニー公に預けられての死去であったため、疑心暗鬼に駆られた父王により、 フランス宮廷に預けられるために船に乗せられたが、その途中で船はイングランド側に拿捕され、 ジェイムズはイングランド王ヘンリー4世に引き渡された。 しかし18年ものイングランド生活の中で、ヘンリー5世はジェイムズを厚遇し、 ヘンリー6世もジェイムズを賓客として扱った。 ジェイムズはランカスター公の孫娘ジョアンと結婚、そこでスコットランドに帰された。 スコットランドに戻ったジェイムズは戴冠式を終えると、国政の改革に手をつけたが、 自分の不在中に摂政にあたったオルバニー公マードックを息子とも処刑し、 一定の国政安定を得たものの、恐怖政治として反感を浴びた。 さらに公私混同を重ねたため、叔父アサル伯ウォルターらによって刺殺された(1437年)。 長男は早世、次男ジェイムズは次王ジェイムズ2世、 長女マーガレットはフランスの皇太子ルイ(後のルイ11世)の妃となった。
39 ジェイムズ2世
James U
1437〜1460
前王(38代)ジェイムズ1世と王妃ジョアンの息子(双子の弟)として生まれ、 兄アレグザンダーが早世したため、ロスシー公に叙爵された。 6歳の時に父王ジェイムズ1世がアサル伯ウォルターらに刺殺され、王位を継いだ。 しかし、摂政にあたった5代、6代、8代ダグラス伯と、 エディンバラ城代ウィリアム・クライトンやスターリング城代アレグザンダー・リヴィングストンらの政争により政務は混乱した。 18歳(1449年)で親政を執ったジェイムズ2世はこうした貴族を処刑し、王位に次ぐ領地を持つダグラス伯家も崩壊に追い込んだ。 翌年、グェルダー公の娘メアリと結婚、長男は次王ジェイムズ3世、 次男はオルバニー公アレグザンダー、4男はマー伯ジョンとなった。 1460年(29歳)、大砲の事故で死去。
40 ジェイムズ3世
James V
1460〜1488
前王(39代)ジェイムズ2世と王妃メアリの長男として生まれ、 同時にロスシー公に叙爵された。 父王の事故死により8歳で王位についた。 親政を執るまでは摂政のボイド卿ロバートの言いなり、 親政を執ってからも実弟のマー伯ジョンに邪魔をされた。 しかし、寵臣ロバート・コホランの排除、 ジェイムズの廃位を画策した実弟のオルバニー公アレグザンダーとジョンは捕らえられ、前者は逃亡、 後者は獄中で死亡した。 アレグザンダーはイングランドのグロースター公リチャード(後のリチャード3世)の支援で、 亡命していた9代ダグラス伯ジェイムズと1482年にスコットランド北部に侵攻した。 その機を狙って不満貴族はコホランを処刑、 ジェイムズをエディンバラ城に閉じ込めた。 しかし、ジェイムズを支持する民衆によって廃位計画実行されなかったものの、 皇太子ジェイムズ(後のジェイムズ4世)を巧妙に抱き込んだ貴族らにより、 ジェイムズ3世は殺害された(1488年)。 ジェイムズは1469年にデンマーク及びノルウェイ、スウェーデン王クリスティアン1世の娘マーガレットと結婚し、 長男は皇太子ジェイムズ、次男ジェイムズ(同名)はロス公になった。
41 ジェイムズ4世
James W
1488〜1513
前王(40代)ジェイムズ3世と王妃マーガレットの長男として生まれ、 同時にロスシー公、キャリック伯に叙爵された。 15歳で貴族側に抱きこまれ反乱軍側に擁立されたものの、 それが父王の殺害・自分の即位になるとは思ってもみず、 その後自戒の念から、我が身に鉄の鎖を巻きつけた。 アンガス伯アーチボルド・ダグラスの反抗もその鎮圧後は、 その才能を惜しみ宰相とした。 これを契機に各貴族の王に対する忠誠心が戻り、 ジェイムズは更なる奥地での王権の安定を目指した。 語学、芸術、スポーツにも優れ、文化の発展に寄与したが、 外交政策には失敗し、1513年イングランドとの戦争で戦死した。 1503年、イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレットと結婚、 その三男ジェイムズが次王ジェイムズ5世。
42 ジェイムズ5世
James X
1513〜1542
前王(41代)ジェイムズ4世と王妃マーガレットの三男として生まれ、 二人の兄が既に死亡していたために出生と同時にロスシー公に叙爵された。 しかし翌年には父王が戦死、1歳5ヶ月で王位を継いだため政情は混乱。 摂政には母マーガレットがついたが、 その後6代アンガス伯アーチボルド・ダグラスと再婚したため、事態は混乱を極めた。 マーガレットは摂政役から外され、フランスのオルバニー公ジョンが摂政になったがこれもうまく行かず、 ジョンはフランスに戻った。 そこでアンガス伯は幼王ジェイムズを軟禁したが、このことでマーガレットと不和・離婚となった。 その年にジェイムズは軟禁先から脱出、親政を執るようになった。 スコットランド各地を廻り、西部・北部の有力クランとの関係強化にも努めた。 貧しい者への気配りも忘れず、民衆に愛された。 民事中央裁判所を創設した。 1537年、フランス王フランソワ1世の娘マドレーヌと結婚したが、 同年マドレーヌは死去。 翌年、フランスのギース公クロードの娘マリーと再婚、 その長女が次の女王のメアリ女王。
43 メアリ
Mary
1542〜1567
前王(42代)ジェイムズ5世と2度目の王妃マリーの長女として生まれ、 その1週間後に父王が亡くなり、生後7日で即位した。 摂政には2代アラン伯ジェイムズ・ハミルトンがあたった。 イングランド王ヘンリー8世は皇太子エドワード(後のエドワード6世)との結婚を申し入れたが、 スコットランド側が拒否すると翌年の1544年エディンバラに侵攻した(Rough Wooing)。 母マリーはメアリをフランス宮廷に預け、アンリ2世の皇太子フランソワ(後のフランソワ2世)と結婚させるため、 「女王のメアリたち」と共に送り出した。 1558年、二人は結婚し、その後フランソワ2世は即位、メアリはスコットランド女王にしてフランス王妃になったが、 1年余りでフランソワは死去、メアリはスコットランドに戻った。 メアリは宗教対立で混乱する中、再婚を繰り返し、 ついには廃位・逮捕に追い込まれた。 王位にはメアリとダーンリー卿ヘンリー・ステュワートの子ジェイムズが生後13ヶ月で即位した。 1568年メアリは脱走して軍を起こしたが敗退、イングランドに逃亡した。 その後18年に渡ってメアリはイングランド内を転々とするが、 陰謀に絡んだとして処刑された(1587年)。 このメアリから王家名はStuartの綴りに変えられている。
44 ジェイムズ6世
James Y

(イングランド王
ジェイムズ1世
James T)
1567〜1625

(1603〜1625)

前女王(43代)とメアリと2度目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュワートの息子として生まれ、 同時にロスシー公に叙爵、翌年には母王メアリの廃位でジェイムズ6世として即位した。 摂政には義理の伯父のマリ伯ジェイムズ・ステュワートがあたったが、女王メアリの支持派と対立、3年後に暗殺された。 次の摂政も射殺、4代目の摂政も処刑された。 5代目の摂政となった初代レノックス公エズメ・ステュアートは同性愛者で、 ジェイムズ王と関係を持ったが、 ガウリ伯ウィリアム・リヴァンは二人の関係を絶つためにジェイムズを軟禁、 レノックス公を国外に追放した。 17歳(1583年)で脱出したジェイムズは親政を執り、 まず宗教問題に取り組んだ。 そして、イングランドでエリザベス1世が世継のいないまま死去したため、 ヘンリー8世の姉マーガレット(41代スコットランド王ジェイムズ4世の王妃)の曾孫にあたる、 ジェイムズ6世は25代イングランド王ジェイムズ1世として即位した。 これによりイングランドとスコットランドは互いに独立国にして同一人物を王とする「同君連合 personal union」となった。

※歴代王名一覧(英国)
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※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。
※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。
※ダルリアダ王国=6世紀初め頃、スコットランド西部に移住してきたスコット族の王国。
※タニストリー tanistry=11世紀頃まで続いた母系継承制度の一種。王位継承者は在位中の国王の孫まで含む適齢以上の男子全てから、 国王が次王 taniste rigと指名していた。
※ストラスクライド王国 Kingdom of Strathclyde =スコットランド南西部にあったブリトン族 Britonsの王国。 846年のダルリアダ王国(スコット族)とオールバ王国(ピクト族)の連合王国オールバ王国に統一後も12世紀初頭まで存在した。
※スクーンの石 The Stone of Scone=歴代スコットランド王の戴冠の座として使われた石。もともとはアイルランドから持ちこまれたらしい。 1296年、エドワード1世によってイングランドに奪われ、戴冠椅子にはめ込まれた。
※ハイ・ステュワード・オブ・スコットランド High Steward of Scotland=中世のスコットランド宮内庁の最高職位(長官?)で、 ロバート2世の即位によってStewardの最後のdをtに変えて、Stewart王家と呼ばれるようになった。さらに現在では皇太子の称号の一つにもなっている。
※クラン=スコットランドの高地民族を祖とする民族集団。血縁に限らず、盟約によって非血縁者を含む。現在も98のクランが登録されている。 18世紀ころまでは王権も及ばないほどの強い関係を保っていた。
※「女王のメアリたち」Queen's Maries=スコットランドの幼王メアリのフランスへの渡航に同道した同じ名前で良く似た年恰好の幼女たち。 イングランドに拉致された場合に混乱させることを狙っていた。
※(?)=調査、確認中。
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